« バク転講座★ | メイン | ひまわり保育園 トレーニング教室 »
2009年12月15日
支配人の・・・「歴史ってロマン」③最終回
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
徳川家康。幼少の名を「竹千代」。
三河(愛知県西部)で武将の子として生まれた。祖父 松平清康は各地の武将にも知れ渡った戦上手でしたが、身内に暗殺され、父親はからだが弱く、同じく身内のものに討たれました。
不幸はそれに留まらず、当時弱小だった松平家は息子の竹千代(家康)を当時天下に1番近いと言われた「今川 義元」の元へ人質として送ろうとしていました。理由はすぐ近くに織田家がこちらに攻撃された際、援軍をお願いする為です。しかしやしかし、今川義元のもとへ人質として送られている時、身内にも裏切りがあり、今川家にいくところが織田家に渡ってしまいます。
織田家としたら「これで一緒に今川家と戦おうじゃないですか」と言った具合だったようです。
その時に「うつけ」で有名だった若かれし織田信長と後に天下平定する徳川家康との出会いであったと言うことです。とても仲が良く気があったようで、後の「清洲同盟(織田家徳川家の同盟)」に繋がったとされています。
今川家・織田家・今川家と人質として育ち、やっと松平家当主として戻ってきたのは20代後半、今川義元が織田信長に討たれた「桶狭間の戦い」の後でした。
こんな話があります。
今川義元が打たれた後、義元の後を継いだ氏真(うじざね)に対し、
「今から大殿(義元)の弔い合戦に出ましょう!!」と家康が進言しています。
しかし、戦嫌いで風流を好んだ氏真にはその思いが届かず家康はたいそう落ち込んだようです。
もし・・・ここで討ってでたら・・・きっと今川家は勝利を収め・・・
もし・・・・・・
歴史に「もし・・・」は無いのです。
だから、ロマンを感じずにはいられません。
もし、本能寺の変で信長が生き延びていたら・・・
もし、秀吉が美濃3人衆説得する際にうまくいかなかったら命は・・・
もし、家康が大阪夏の陣で真田幸村に討たれていたら・・・伊達家は・・・上杉家は・・・その後の天下は・・・
もし、
もし、
・・・・・・・
歴史が大好きな支配人でした(おwaり)”””
投稿者 big-snanao : 2009年12月15日 19:48
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.bigsnanao.com/blog/mt-tb.cgi/152